我が家は古い木造家屋で、壁やら床やら窓やら、あちらこちらが少しずつ痛んでいる。そんな状態に納得いかなかった僕の奥さんは、いつの間にかDIYに詳しくなっていった。
長い時間をかけて少しずつ、彼女は我が家の改造手術を行なってきた。ガラスがステンドグラス風になったり、洒落た模様のマスキングテープが施されたり、壁や家具にペンキが塗られてアンティークな感じになったり…。最初のうちは、ちょっと驚いたものだけど、時が経つにつれて、どれも家になじんでいった。
DIYはやる人のセンスがストレートに出そうで、僕はちょっと手を出せない。もちろん我が家の場合は、何かの様式に則っているというよりは、そのほとんどが奥さん独自の感性や好みによるものだ。だから気づけば家のあちらこちらに彼女の気配が宿っている。
今日、廊下を歩いている時に、午後の光がトイレのドアの周辺に届いているのを見た。そこもやはり彼女の手が加えられたところだ。それを見ていたら、ほんの少しだけだけど、ふと切なくなって写真を撮った。なんだか急に多くの時間が経ってしまったような感覚に襲われた。そして想像した。未来に自分が感じるだろうことを。
いつか、今よりももっと歳をとった時に同じ風景を見て、僕はきっと思い出すのだ、まだ元気溌剌としてDIYなんてやっていた頃の彼女を。そして場合によっては通り過ぎた多くの時間を思って懐かしくなったり、泣けてきたりするのだ。
まだ見ぬ未来に感じるはずの、今を懐かしむ感覚を想像して切なくなるなんて馬鹿げているかもしれない。でも、時計仕掛けの切なさ発動装置みたいなものが、今も家のあちこちに置かれていて、その時を待っているのだ。少しずつ、時間を蓄積しながら、僕らの思い出や感情も一緒にそこに溜められていって、ある日爆発する。僕はそれを見て泣くのだ、きっと。
でも、やはりそんなことにはならないかな。だって、そんな時が来る前に、そろそろ古くなった家を建て直して全部新しくしようよ!という声が隣から聞こえてきそうだから。
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