「今日、水が澄んでる?」
奥さんの言葉に、いつもの水辺をあらためて眺めると、確かに水が澄んでいて、そこに映る風景までも美しく見えた。
ここは川のようで川ではない。海に続く水路のどん詰まりで奥側は行き止まりになっている。川のように絶えず流れがあるわけではないから夏などは水が濁ってくる。逆に寒い冬は水の濁りが消える。
でも単に水が澄んでるだけではこうはいかない。そう、澄んでいるのは水だけではなかった。気づけば12月。冷たくなった空気もまた、透明度が増したかのように視界を良くしていた。
こんな風に季節の変化に気づくのが好きだ。今年は夏の存在感が大きすぎて秋への変化が感じ取れなかった分、こういう瞬間に懐かしささえ感じた。
「でもさぁ、それにしても綺麗すぎる。」
確かに。考えてみれば、そもそも水が澄んでいるかどうかまで見える時間帯ではなかった。元はと言えば、水が澄んでいると感じたのは水面に映った風景が鮮明だったからだ。
今夜は風がなかった。それにもう夜だから船も通らない。水面を乱す波を起こすものが何もない。静まり返った水面は水鏡となり、周囲の建物、空や雲をくっきりと映していた。この鮮明にくっきりとした見え方こそが、「澄んでいる」と感じた正体だった。そこまで考えが至ってようやく納得。
さりげなく佇む美しい風景は、幾つもの条件が整ってようやく見られるものであって、それに出会うことや、その希少さに気づくことが、僕らの日々を少し豊かに幸せにしてくれる。
「ああ、すっきりした。冬もいいもんだねぇ。」
でも本当はこの日の風景が美しく見えた理由がもう一つあった。
この日、僕らは久しぶりに写真の神様に会いに行った。神様の言葉はいつも明快で快活だ。お話を聞いていると物事の輪郭がはっきりしてくる。部屋の灯りを新しいものに変えた時みたいに。
「ありがたいねぇ、やっぱり神様だね。」
神様と別れたあと、僕らは僕らを照らしてくれる神様に感謝しながら、そんなことを話した。
こうして、僕らの頭の中はいつもより幾らかは「はっきり」していたはずだ。だから日常の中にある小さな美しい変化に気づく準備ができていた。このことはわざわざ奥さんとは話さなかったけど、僕は今度こそすっきりした。
今後、幾度となくこの場所を眺めるだろうけれど、今日と同じように見えることはないのだろう。僕らはもう考えることはやめて、ただ美しい眺めを楽しみながら歩いた。
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