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写真展のテーマとして、「日常」という言葉について考えていた。
そのヒントになればと、役所広司さん主演の映画『Perfect Days』を改めて観た。
静かで、淡々としていて──けれど、じわじわと心に染み込んでくる映画だった。
以下はその感想を、メモのように綴ったものであり、同時に僕自身の「日常」への思索でもある。

平山の日常と、自分のルーティンの対比
僕には、ルーティンがない。
20年以上、自営業をしている。締切はある。でも「どうやってそこまで辿り着いたか」は、誰にも問われない。
スタートとゴールだけが求められる。
その間は自由──それは確かに自由である一方で、どこか危うさも伴っている。
対して、『Perfect Days』の主人公・平山の暮らしは、その真逆だ。
彼は毎朝、箒の音で目を覚まし、植木に水をやり、身支度を整える。
玄関を出るときに空を見上げ、缶コーヒーを買い、ラジカセにカセットを入れて車を走らせる。
彼の一日は、公衆トイレの清掃から始まり、決まった銭湯に行き、古本屋で文庫を買い、スタンドの灯りの下で本を読み、眠ることで終わる。
その繰り返しが、彼の生活の形を作り、彼自身を静かに支えている。
誰かに強いられたのではない、自分で選んだルーティン。
それを守り、また守られているように見えた。
淡々としていて、そして凛とした美しさがあった。
日常に割って入る人々と、その受け止め方
けれど、その日常にも、時おり誰かが割って入ってくる。
職場の若者が頼ってきたり、突然辞めたり。
姪のニコがふいに訪ねてきたり。
心惹かれていた飲み屋のママの元に、元夫が現れたり。
そうした出来事に、平山は少しだけ自分のリズムを崩しながらも、柔らかく対応していく。
ルーティンを乱されても、すぐにまた戻れる場所がある。
それは、ルーティンを持つ人だからこその強さだと思う。
逸脱したことに自覚的でいられるからこそ、戻る方向も見える。
特に、ニコとの時間は印象的だった。
普段一人のときに張っていた“防御シールド”のようなものを、二人用に静かに張り替えていた。
それがとても優しく、美しかった。
平山の暮らしには、しなやかさがある。
変わらないようでいて、他者の存在を拒まない、静かな柔軟さ。
それが、彼の「日常」を壊れないものにしている。

木漏れ日と、「写真を撮ること」
公衆トイレの清掃という仕事は、誰もが望むものではないかもしれない。
だが平山は、それを誇りをもって、丁寧に、美しくこなしていく。
その合間、彼はふと木漏れ日を見上げる。
風に揺れる葉、雲の影──光の加減が一瞬で変わっていく。
その移ろいに、彼はじっと目を凝らす。
僕が写真を撮るという行為も、それに少し似ていると思う。
日常のすき間で、光の角度や人の表情のゆれ、空気の粒の変化を見つけては、シャッターを切る。
そんな一枚が撮れた日は、少し幸せを感じる。
同じように繰り返される日常の中にも、微細な違いや美しさがあることを、平山は知っている。
繰り返しの中にある、変化と成長
僕にはルーティンがない。自由だ。
でも、この映画を観て、少しだけ羨ましくなった。
自分のペースで繰り返される日々。
その中でしか育たないものが、確かにあるのだと。
人が何かを積み上げるには、「繰り返し」という営みが必要だ。
平山はそれを、静かに、力強く教えてくれた。
印象に残ったシーンがある。
飲み屋のママの元夫と、平山のやりとり。
病を抱え、余命を思いながら元夫はつぶやく。
「影を重ねると、濃くなるんですかねぇ」
平山は少し首を傾げる。
「さぁ……」
「わかんないことだらけだなあ。結局、何もわからないまま終わっちゃうんだなあ」
そんな元夫に、平山はそっと提案する。
「やってみましょうか」
──影を重ねてみたふたり。
「いやぁ、変わらないかなあ」
と元夫。平山が言う。
「なってるんじゃないですか、濃く。変わらないなんて、そんな馬鹿な話、ないですよ」
このやり取りが、深く胸に刺さった。
変わらない日常なんて、きっとない。
日々の中で懸命に生きてきた時間には、確かに何かが宿っている。
平山の言葉には、それを積み重ねてきた人の実感と、他者への優しさがにじんでいた。
「Perfect Days」に宿る人生の重み
日常は、小さな出来事の積み重ねでできている。
木漏れ日のように、同じように見えても、同じ瞬間は二度とない。
そんな「Ordinary Days」の連なりが、いつか「Perfect Days」という宝石になる。
映画は、そう静かに、でも力強く語ってくれている。
頑張ってきたのに、目に見える結果が出ていないと感じている人たちがいる。
でも、ちゃんと変化は起きている。
「何も変わらなかった」なんてことは、あってたまるか、と思う。
日々の中で、少しでも必死になった時間。
誰かのために何かをした時間。
それが、何の影響も与えなかったなんてことはない。
平凡に見える日常の中にも、ちゃんと喜怒哀楽があって、誰かに何かが届いている。
日常は、確かに積み重なっている。
静かに、しっかりと、僕たちの背後に。
そのことに気づけたとき、小さくても確かな幸せがあるのだと思う。
僕もまた、小さなルーティンを見つけながら、自分なりの「日常」を積み重ねていきたい。

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