日常について考える – 小津安二郎「晩春」から

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ひっそり咲く花
小津安二郎監督の終の住処でもあり映画「晩春」のロケ地でもある北鎌倉周辺は緑が多い

先日、写真展のテーマを決めるにあたり「日常」という言葉について考えていると書きました。そのきっかけの一つは、小津安二郎監督の映画「晩春」を観たことでした。

常ならざる「日常」

この映画では特に大きな出来事は起きません。それでも少しずつ物語が進むにつれ、主人公の父と娘にとって当たり前だった生活は形を変えてゆきます。その静かに進む変化を見た時、気づきました。

「日常って常ではないんだ」

常なる日と書く「日常」は、実は常ならざる日々なのだと思ったら、この言葉が急に気になり始めました。

誰かの人生のある何年かだけを見たら、そこには特段大きな出来事はなくて、まるで全てが繰り返しのように感じられる。そんな日々を私たちは「日常」と呼ぶのではないでしょうか。それでも時間は流れていて、昨日と今日では全く同じに見えたとしても、少しずつ変わり続けています。何も変わらない日なんてなくて、やがて積み重なって目に見えるほどになった変化を受け入れるしかない時が来る。それは静かに、確実にやってくるものです。人はそれを少しの諦めと共に受け入れるしかありません。

映画「晩春」の初めての印象

「晩春」を観て、最初に受けた印象はそんな感じでした。変わり映えしない日常の大切さも愛おしさも、失う段になって初めてしみじみと気づき感じるのだと。その時、誰か大切な人の幸せを祈りながら、自分の終わっていく時間を受け入れる、そんな感情が映画全体を包んでいるように感じました。

人によるのかもしれないけれど、多くの場合、人は忘れてしまいます。手の中にあるものがどれほど大切だったか。でも忘れてしまえるのは幸せだからかもしれません。思い出すのは大抵はそれを手放す時で、二度と同じ過ちはしないと思ったりします。

椿と桜
椿と桜。咲き誇る姿も散り際もまるで違う両者だが、今は共に、静かに土に還る

見るたびに変わる映画の捉え方

ところが何度か見るうちに、印象が変わりました。それは物語前半の安定した日常に見えた場面は、実は戦争という大きな悲しみを乗り越えた後の日々だと気づいたからです。主人公である父と娘の家にはお母さんは不在ですし、娘も戦争中の無理が祟ったせいで健康に不安があります。周りにも全てが揃っている人は少なそうです。

つまり平和で平凡な日々と感じた物語冒頭からのシーンは全て、大きな悲しみの後にようやく辿り着いた穏やかな日々だったというわけです。

失われた日常と取り戻した日常

人は大きな悲しみも時間とともにやがて乗り越え、また日常と呼べる日々を取り戻すのでしょう。ただ、当たり前にあったものがなくなってしまった喪失感は大きく、側から見たら日常と言えるような平凡な日々でも、当人にとっては何かが欠けた不完全な日常なのかもしれません。

大きな悲しみを乗り越え、取り戻した日常を、再び手放すのかと思えば、それは悲しみも寂しさもひとしおです。それでも父は娘を思い、娘は父の思いを受けて、それぞれの人生を進んでいくのです。

人は繰り返す

人は繰り返します。喜びも後悔も。映画の中のこんなセリフが心に残ります。

「早いもんだねぇ、来たと思うともう帰るんだねぇ」
「ええ、でもとても楽しかった」
「こんなことなら、今までに、もっとお前と方々行っておくんだったよ」

でも何年かしてまた同じ気持ちになることがあるのです。人は繰り返すから。やっとの思いで新たに手にした大切なものへの愛情も感謝も忘れていく。そしてまた思うのです。

「こんなことなら、もっと…」と。

後悔は繰り返される。せめて振り返った時に後悔だけでなく、その過ごした日々の素晴らしさを覚えていたいし、いてほしい。

「早いもんだねぇ、来たと思ったらもう帰るんだねぇ」
「ええ、でもとても楽しかった」

と言えるように。

このところ「日常」という言葉についてずっと考えています。考えるたびに気づきがあったり、写真展で展示しようと思う写真が入れ替わったり。なんだか、写真展の準備をしてるはずが、人生について考える時間になっています。僕の場合、写真と言葉はとても近いところにあるようです。

筍
季節が巡り命も繰り返す

NOKTON Vintage Line 75mm F1.5 Asphericalのその他の写真はこちら

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